やきもの好きな少年の心を忘れず、他の追随を許さぬ作品作りを目指す炎の陶芸家
尾﨑髙行(おざき たかゆき)さんの作品は織部・志野の美濃焼、信楽焼風の焼締めが多い。
その作風は大胆かつ豪快だが、お会いしてみると分かるが本人はえびす様の笑顔を持つ、心優しく実直な人間だ。
周囲への気遣いはいつも忘れないが、自分の信念は決して曲げない心の強さが垣間見られた。
彼は窯元の生まれでもなく、師匠についたわけでもない。小学生で陶芸に出会って以来、自分の探求心を頼りに手探りで作陶を続けてきた。
生活を支えるために彼はいろいろな職業に就いたが、その間決して陶芸をやめることはなかった。
30代半ばに茨城県鉾田市に土地を購入し、自らの手で穴窯「夢現窯(むげんがま)」を構築し、陶芸家として生きることを決意した。「劣等感をバネに生きてきました」と彼は言った。
今後の目標はと訊ねると、「自分の中で造形力を高めたい」「この作品、尾﨑だよね!」といってもらえる作品を作りたいと即答した。
笑顔で「人間はちっぽけな生き物」「やりたいことは死ぬ前にすべてやる」と言った彼のまなざしは力強く、新たな陶芸の道を切り開こうとする意気込みが伝わってきた。
陶芸家・尾﨑髙行 5つのこだわり
1、美術陶芸(飾り物の陶器)にも力を入れるが、日用の食器作りはやめない
2、食器としての盛り映えを重視する。買い手に媚びて、使い易さに流されない 3、陶芸は炎の芸術、炎を潜らせはじめて価値が出る。本焼きに電気窯は使わない
4、「釉の流れ」と「土の粗さ」が醸し出す景色の美しさを追求する
5、劣等感を生きるバネにしてきた。これからもその意識は忘れない
陶芸家に憧れた少年時代
尾﨑さんは1973年に東京都足立区で生まれ、小学生の時に早くも陶芸と出会ったそうですが。
小学4年生のときに地元の児童館の2階で夕方陶芸教室が開かれていて、興味を持ったのが始まりです。
その後足立区が情操教育の一環として各小学校にも陶芸窯を導入したことも重なり、陶芸に引き込まれました。
当時学校が校内暴力で荒れていて、非行に走られるよりはマシと両親が考えたのか、6年生の私に電動ろくろと灯油窯を買い与えてくれました。そのろくろは今でも使っています。
わたしの父が萩焼で有名な山口県萩市の出身であったり、おふくろの父親、つまり祖父が大の陶芸好きだったという環境で育ったこともきっかけでした。
独学で陶芸を続ける
陶芸を始めた頃にテレビで見た、加藤唐九郎さんと荒川豊蔵さんのドキュメンタリー番組で穴窯で志野を焼く「やきものの世界」に完全に魅了されました。
彼らは桃山陶の美をひたむきに追い求める中から、志野・瀬戸黒、あるいは黄瀬戸・織部などに新境地を切り開いた陶芸家です。
特に加藤唐九郎さんのドクメンタリーはその番組名や流れていた音楽、内容の詳細をいまでも鮮明に覚えています。頭に焼き付いているという感じです。
また私はやきものの色としては「緑」が好きなので、緑釉の織部や緑色のビードロが入った信楽焼が好きです。以前乗っていたクルマも透き通った緑色でした。
中学生の時、私が陶芸に熱中していることを知っていたある先生から「高校に進学せずに焼き物の産地へ行ってこい」と言われ、親と信楽焼と備前焼の窯元を訪ねたことがありました。
そのときに備前焼の陶芸家・中村六郎さんの窯元を訪ね、「高校を出てからでも遅くない」と言われ、定時制高校に進学しました。
高校卒業後は熱帯魚店勤務に始まり、トラック運転手、土木会社勤務などいくつか勤務先を変えながら焼き物作りを続けました。
最後に勤めた厨房設備会社には約10年間勤めましたが、これと並行して2006年ごろからは作った作品の販売も始めました。
2010年から笠間の陶炎祭(ひまつり)にも出店を始め、陶芸家として独立を決意しました。
公募陶芸展に出展しないのですか?
出展してませんし、日本陶芸展などの会員にもなっていません。窯元などの世襲制や陶芸家に師事する徒弟関係とはまったく縁がない世界で、陶芸を続けてきました。
だから公募展に出展することにも距離を置いて来ました。いまは陶芸一本で生計を立てており、今後は全国的な会にも積極的に参加することも考えています。
ただ公募展に出品するような創作性の高い作品作りだけで生計を立てるのも難しいでしょうし、好きな食器作りは続けます。
作家物の食器は量産品とはまるっきり違う魅力があります。私の食器作りのコンセプトは、「かさならない、粗い、使いやすさに流されない」です。
一点物なので見た目に迫力を出したい。実用美に寄り過ぎると粗さの良さが削られてしまう。つまり料理を盛った時の盛り映えを重視したいのです。
いままで陶芸を独学で続けてきましたが、窯業学校で専門的に陶芸の基礎を学んでこなかったことや、プロの陶芸家に師事したことがないことが常に劣等感になっていました。
公募展など表彰を受けるところにあえて近づかなかったのも、そんな気持ちがあったからかもしれません。
今後陶芸で目指す方向は?
作品に大胆さだけでなく、「造形力」を磨きたいですね。最後の一味がまだ足りないと思います。
「これ、尾崎の作品だよね・・・」とすぐわかるようなインパクトを探求しています。その中で「釉薬の流れ」と「土の粗さ」が創る景色の美しさにいま大変興味があります。
備前焼で人間国宝の陶芸家、山本陶秀さんの言葉、「他の追随を許さない作品をつくる」 が印象に残っています。
尊敬する陶芸家は?
美濃陶の加藤唐九郎さんと備前焼の山本陶秀さん です。
二人とも故人ですが、私を焼き物の世界に導いた心の師匠です。生きてる間に少しでも近づきたい存在です。
陶芸以外のこだわりも半端じゃない
先ほどエンジンをかけていただきましたが、GMのシボレーですか?低いエンジン音がズシリと響きますね。
V型8気筒の5000㏄エンジンです。シボレーでも私の場合は、1959年製のシボレーにこだわっています。そのころのアメリカではクルマは毎年モデルチェンジしてました。
私はこの1959年製シボレーの流線型のフォルムが大好きなんです。希少性もあるし、特にテールライトに魅力を感じています。それ以外のシボレーには関心がありません。
20年前にクルマ好きのローライダーのグループに入り、全部が動くクルマではなかったですが、一時は1959年製シボレーのみ7台所有していたときもありました
― 尾﨑さんから名車シボレーの話をお聞きしながら、私(筆者)はむかし映画館で観た「アメリカン・グラフィティ」という映画を思い出した。
確か1962年の夏、明日に旅立ちを控えた若者たちの夕刻から翌朝までの半日を追う映画だった。
タイトル通り「落書き(グラフィティ)」のように物語が展開する青春映画だった。ベトナム戦争に突入する前の、私のイメージにある「最もアメリカらしい」時代だった。