有田焼(ありたやき)
1610年代に登場した白磁の磁器がやきものの歴史を変えた。
西欧の王侯貴族を魅了した古伊万里、柿右衛門、鍋島。日本磁器の歴史は有田焼によってつくられた。
泉山陶石、天草陶石などを原料としているが、磁器の種類によって使い分けている。作品は製造時期、様式などにより、初期伊万里、古九谷様式、柿右衛門様式、金襴手(きんらんで)などに大別される。
また、これらとは別系統の献上用の極上品のみを焼いた作品があり藩窯で鍋島藩のものを鍋島様式、皇室に納められたものを禁裏様式と呼んでいる。
江戸後期に各地で磁器生産が始まるまで、有田は日本国内で唯一、長期にわたり磁器生産を続けた。
有田焼の歴史
「有田焼」と「伊万里焼」
近世初期以来、有田、三川内(長崎県)、波佐見(長崎県)などで焼かれた肥前の磁器は、江戸時代には積み出し港の名を取って伊万里と呼ばれていた。
また英語での呼称も “Imari” が一般的である。寛永15年(1638年)の『毛吹草』(松江重頼)には「唐津今利の焼物」とあり、唐津は土もの(陶器)、今利(伊万里)は石もの(磁器)を指すと考えられている。
明治以降、輸送手段が船から鉄道等の陸上交通へ移るにつれ、有田地区の製品を有田焼、伊万里地区の製品を伊万里焼と区別するようになった。
有田を含む肥前磁器全般を指す名称としては伊万里焼が使用されている。
磁器生産の開始
肥前磁器の焼造は17世紀初期の1610年代から始まった。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、有田を含む肥前の領主であった鍋島直茂に同行してきた陶工たちの一人の李参平は、1616年(元和2年)に有田東部の泉山で白磁鉱を発見し、近くの上白川に天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いたとされ、有田焼の祖である。
李参平は日本名を金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)と称し、有田町龍泉寺の過去帳などにも記載されている実在の人物である。有田町では李参平を陶祖として尊重し祭神とする陶山神社(すえやまじんじゃ)もある。
有田の土
有田は小山に囲まれた盆地にあり、この泉山の白磁鉱はもともとは茶褐色の火山性の流紋岩で、それが近くの英山(はなぶさやま)の噴火で蓋をされて、長い時間をかけて温泉効果で白色のに替わり、変質流紋岩火砕岩と呼ばれている。
この岩石を盆地に流れ混む小川に水車を応用して、細かく砕き陶土として、また坂を利用して登り窯を作りやすかったという。
この頃の有田では当時日本に輸入されていた、中国・景徳鎮の磁器の作風に影響を受けた染付磁器(初期伊万里)を作っていた。
染付は中国の青花と同義で、白地に藍色1色で図柄を表した磁器である。磁器の生地にコバルト系の絵具である呉須で図柄を描き、その後釉薬を掛けて焼造する。
当時の有田では窯の中で生地を重ねる目積みの道具として朝鮮半島と同じ砂を用いており、胎土を用いる中国とは明らかに手法が違うことから、焼成技術は朝鮮系のものとされる。
一方で17世紀の朝鮮では白磁が製造され、染付や色絵の技法は発達していなかったため、図柄は中国製品に学んだと考えられ、絵具の呉須も中国人から入手したものと考えられている。
1637年(寛永14年)に鍋島藩は、伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し、多くの陶工を廃業させて、窯場を有田の13箇所に限定した。こうして有田皿山が形成された。
陶石を精製する技術(水漉)が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていること、素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため柔らかな釉調であること、形態的には6寸から7寸程度の大皿が多く、皿径と高台径の比がほぼ3対1の、いわゆる三分の一高台が多いことが特徴である。
色絵磁器の登場・発展
その後1640年代に中国人陶工によって技術革新が行われ、1次焼成の後に上絵付けを行う色絵磁器が生産されるようになった。
伝世品の古九谷様式と呼ばれる青・黄・緑などを基調とした作品群は、かつては加賀(石川県)九谷の産とされていたが、20世紀後半以降の窯跡の調査により、この時期の有田で焼かれた初期色絵がほとんどを占めることが分かっている。
色絵蓋付大壷(江戸中期)
17世紀後半、1660年代から生産が始まったいわゆる柿右衛門様式の磁器は、濁手(にごしで)と呼ばれる乳白色の生地に、上品な赤を主調とし、余白を生かした絵画的な文様を描いたものである。
この種の磁器は初代酒井田柿右衛門が発明したものとされているが、研究の進展により、この種の磁器は柿右衛門個人の作品ではなく、有田の窯場で総力をあげて生産されたものであることが分かっており、様式の差は窯の違いではなく、製造時期および顧客層の違いであることが分かっている。
鍋島焼
国立博物館所蔵
一方、鍋島焼は日本国内向けに、幕府や大名などへの献上・贈答用の最高級品のみをもっぱら焼いていた藩窯である。
鍋島藩の藩命を懸けた贈答品であるだけに、採算を度外視し、最高の職人の最高の作品しか出回っていないが、時代を下るにつれて質はやや下がる。
作品の大部分は木杯形の皿で、日本風の図柄が完璧な技法で描かれている。高台外部に櫛高台と呼ばれる縦縞があるのが特徴。開始の時期は定かでないが、延宝年間(1673年頃)には大川内山(伊万里市南部)に藩窯が築かれている。
当初、日本唯一の磁器生産地であったこれらの窯には、鍋島藩が皿役所と呼ばれた役所を設置し、職人の保護、育成にあたった。
生産された磁器は藩が専売制により全て買い取り、職人の生活は保障されていたが、技術が外部に漏れることを怖れた藩により完全に外界から隔離され、職人は一生外部に出ることはなく、外部から人が入ることも極めて希であるという極めて閉鎖的な社会が形成された。
海外への輸出
磁器生産の先進国であった中国では明から清への交替期の1656年に海禁令が出され、磁器の輸出が停止した。
このような情勢を背景に日本製の磁器が注目され、1647年には中国商人によってカンボジアに伊万里磁器が輸出され、1650年には初めてオランダ東インド会社が伊万里焼(有田焼)を購入し、ハノイに納めた。
これによって品質水準が確認され、1659年(万治2年)より大量に中東やヨーロッパへ輸出されるようになった。
これら輸出品の中には、オランダ東インド会社の略号VOCをそのままデザイン化したもの、17世紀末ヨーロッパで普及・流行が始まった茶、コーヒー、チョコレートのためのセット物までもあった。
19世紀は明治新政府の殖産興業の推進役として各国で開催された万国博覧会に出品され、外貨獲得に貢献する有田焼に期待が集まった。
この輸出明治伊万里は第四の伊万里様式美として研究され、確立されつつある。万国博覧会の伊万里と称される。
酒井田柿右衛門
酒井田柿右衛門家は、鍋島焼における今泉今右衛門とともに、21世紀までその家系と家業を伝えている。1982年に襲名した14代目は重要無形文化財「色絵磁器」の保持者として各個認定されている。
また、柿右衛門製陶技術保存会が、重要無形文化財「柿右衛門」の保持団体に認定されている。「柿右衛門」を襲名して、戸籍名の変更まで行うが、酒井田姓は本名であり、嫡子相伝の伝統は変わっていない。
14代目が2013年に没した後、2014年2月4日に長男が15代目となる柿右衛門となった。
描き」と「転写」
有田焼には酒井田柿右衛門が創始した伝統的な技術である「手書き」と、大量生産とコスト削減を目的とした「転写」の技術が存在する。
手描き作品は相対的に手間がかかり、作家の技量や個性が反映されるため美術品や陶芸作品として販売される場合が多い、転写作品は品そのものに対する価値は低いものの価格が安い場合がある。
しかし、一概に転写作品は値段が低いという事もない。手描きと転写は手に持った手触りから簡単に見分けることができる。
特に手描き作品では絵具が隆起しており、作陶家の心髄を感じることができる。一方、転写作品は全体的にのっぺりとしており、滑らかな感触を味わう事で判断することが可能。
染付
染付は、8時間から9時間、約900度の素焼窯での焼成行程の後、呉須で絵紋様を描くものである。細筆での輪郭描きと、紋様を塗り込める濃(だみ)の行程とに分かれ、ダミは太いダミ筆を用いて、細筆で描いた輪郭の内側の部分に染付の濃淡を付ける職人技法である。
染付の原料となる呉須は江戸時代までは明(中国の王朝)から、また明治時代以降は西洋からのコバルトを使う技術が用いられている。
日本国外との関わり
佐賀県有田町とドイツ連邦共和国のマイセン市は、17世紀に日本から輸出された古伊万里や古い有田焼がドレスデン博物館に多数保管されていた事が縁となり、1979年より姉妹都市となっている。
また、ロックバンド・クイーンのフレディ・マーキュリーは伊万里焼を愛好していた。