伊万里焼は佐賀の磁器【全国の焼き物と窯場を紹介】

全国の窯場

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伊万里焼(いまりやき)は、有田(佐賀県有田町)を中心とする肥前国(現代の佐賀県および長崎県)で生産された磁器の総称。

製品の主な積み出し港が伊万里であったことから、消費地では「伊万里焼」と呼ばれた。有田の製品のほか、三川内焼、波佐見焼、鍋島焼なども含む。

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概要

中国では紀元前から原初的な磁器が製造され、後漢時代(西暦25年 – 220年)には本格的な磁器が焼かれていたが、日本では中世までのやきものは陶器であり、磁器は輸入品に頼っていた。

日本で初めて国産磁器の製造が開始されたのは17世紀、有田(佐賀県有田町)においてであった。

伊万里焼の文献上の初出は寛永15年(1638年)の『毛吹草』(松江重頼)である。同書に「唐津今利の焼物」とあり、唐津は土もの(陶器)、今利(伊万里)は石もの(磁器)を指すと考えられている。

有田、波佐見などの肥前の磁器は、近世には主な積み出し港の名から「伊万里焼」と呼ばれた(近世には「今利」「今里」とも書かれることが多かった)。

有田地区の製品を「有田焼」、伊万里地区の製品を「伊万里焼」と呼び分けるようになったのは、近代以降、船に変わって鉄道が輸送の主力となってからのことである。

研究者はいわゆる「伊万里焼」を「肥前磁器」と呼ぶことも多い。

伊万里焼の歴史

伊万里焼の起源

佐賀藩(鍋島藩)の藩祖鍋島直茂が豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592年 – 1598年)に参加したことをきっかけに、朝鮮から多くの陶工が拉致・亡命などにより佐賀へ渡った。

これらの陶工によって有田における磁器製造が開始された。通説では朝鮮出身の李参平(日本名:金ヶ江三兵衛)が有田の泉山で磁器の原料となる陶石を発見し、元和2年(1616年)に有田東部の天狗谷窯で磁器焼造を始めたとされている。

金ヶ江三兵衛が実在の人物であることは古文書等から確認されているが、元和2年(1616年)に初めて磁器を焼造したということは史料からは確認できない。

九州陶磁文化館の大橋康二らの窯跡調査によると、磁器が最初に焼造されたのは有田東部の天狗谷窯ではなく、有田西部の天神森窯、小物成窯、小溝窯などの窯であり、消費地での発掘調査などから、磁器製造の創始は1610年代であるというのが定説になっている。

1637年に焼き物産業推進方針を決めた鍋島藩により窯場は13箇所に整理され、渡来人陶工を中心とした本格的な有田焼産業が発達した。

有田は山に囲まれた盆地にあり、この泉山の陶石(磁器の材料)は火山性の流紋岩で、それが近くの英山(はなぶさやま)の噴火で蓋をされて、長い時間をかけた温泉効果で白色の陶石に替わり、「変質流紋岩火砕岩」と呼ばれものになった。

この岩を盆地に流れ込む小川に水車を応用して、細かく砕き陶土(磁器用土)として、また坂を利用して登り窯を作ることができた。

初期伊万里

1610年代から1630年代頃までの初期製品を陶磁史では「初期伊万里」と称する。この時期の製品は、白磁に青一色で模様を表した染付磁器が主で、絵付けの前に素焼を行わない「生掛け」技法を用いている点が特色である。

初期の磁器は、砂目積みという技法が使われている。砂目積みとは、窯焼き時に製品同士の熔着を防ぐために砂を挟む技法で、中国製の磁器にはみられない朝鮮独特の技法である。

このことから、朝鮮から渡来の陶工が生産に携わったことが明らかである。

一方、当時の朝鮮半島の磁器は、器面に文様のない白磁であったので、呉須(コバルトを主原料とする絵具)で文様を描く染付の技法や意匠は中国由来(中国出身の陶工作)のものであると考えられる。

この初期伊万里は絵付けの発色が安定せず、生地も厚く歪みや押指の跡が残るなど粗雑な部分があり、次第に九谷焼や柿右衛門などに押され市場から姿を消してしまった。

しかし初期伊万里は後に1960年頃より素朴な美しさや叙情美が再評価され、早々に市場から淘汰されたことによる流通量の少なさから以後は希少性が高く高値で珍重されるようになった。

初期色絵

1640年代には有田西部の山辺田窯(やんべたがま)などで色絵磁器の生産が創始され、国内向けの大皿などの色絵磁器製品が生産された。

これらは、加賀(石川県)の九谷が産地であると長年考えられていたことから「古九谷」と称され、現代の陶磁史では「古九谷様式」あるいは「初期色絵」と称されている。

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