太平洋戦争で沖縄本島全土が焦土化する中、壺屋地区は比較的軽微な被害で済んだ。都市化の進行で薪窯の使用が規制されると、伝統的な技法を失い再度存続の危機を迎えた。
今日では薪窯を認可した読谷を始め、壺屋地区以外にも窯元が分散することとなり、およそ100ほどの窯元が県内に見られる。
壺屋焼のはじまり
1682年、尚貞王が湧田窯、知花窯、宝口窯の三カ所の窯を牧志村の南(現・壺屋)に移転し統合したのが、現在の壺屋焼の始まり。
その後、壺屋焼は琉球随一の窯場となり、その製品は国内消費や交易に利用された。
また、琉球使節の「江戸上り」の際、将軍や幕府首脳への献上品である泡盛を入れる容器としても用いられた。
低迷期と再興
明治から大正にかけて壺屋焼は低迷期を迎える。琉球王府の廃止を含む幕藩体制の解消で流通の制限が無くなり、有田などから安価な焼き物が大量に流入してきた。
再生の転機は、大正の終わり頃から柳宗悦によって起こされた民芸運動に陶工達が触発されてからである。
柳は、沖縄での作陶経験のある濱田庄司らとともに1938年から1940年までに4回沖縄を訪問し、金城次郎や新垣栄三郎ら陶工に直接指導や助言をおこなった。
また壺屋焼を東京や京阪神などで広く紹介したため、生産も上向きになった。今日、壺屋焼があるのはこの民芸運動家らによるところが大きい。
彼らは日本国内で生産される日用雑器の「用の美」と呼ばれる実用性と芸術性に光を照らした。
そして壺屋焼を、本土にない鮮やかな彩色が目を惹き、庶民の日用品でこれほどまでに装飾性を兼ね揃えたものは珍しいと評価している。
2種類の壺屋焼
壺屋焼は大きく分けて、「荒焼」と呼ばれる南蛮焼の系統と、「上焼」と呼ばれる大陸渡来系がある。
荒焼(アラヤチ)
14世紀~16世紀頃、ベトナム方面から伝わったやきもの。釉薬を掛けずに、1000度の温度で焼き締める。鉄分を含んだ陶土の風合いをそのまま生かしたもので、見た目は荒い。
当初は水や酒を貯蔵する甕が中心であったが、近年は日用食器も多い。また魔除けで知られるシーサーも多くはこの荒焼である。
上焼(ジョウヤチ)
17世紀以降、朝鮮陶工らによって始められた絵付陶器。陶土に白土をかぶせて化粧し、色付けし釉薬を掛けて焼成したもの。
茶碗、皿、鉢、壺などの日用品、また沖縄独特のものとして泡盛酒器の抱瓶(携帯用)やカラカラ(沖縄独特の注ぎ口のついた酒器)などがある。
多くは化粧後に彫刻紋様(釘彫り、もしくは線彫り)を施されるが、その他には、釉薬を垂らしながら描くイッチン、釘彫りしたあと面を削った面彫り、そこに白土を被せた象嵌なといくつかの手法がある。
描かれる絵柄は動植物、風景、抽象模様など多岐にわたるが、魚紋は特に数多く、壷屋焼の象徴となっている。
また数は多くないが、エキゾチックな異国船や異国人を描いたものもあり、異国人を描いたものはエジプト紋と呼ばれている。
荒焼に対して装飾性は強いが、これが上流階級だけでなく庶民向けでもあったため、民芸運動家らは驚き絶賛したという。
伝統の「抱瓶」
三日月筒型の容器の片端に注口、中央に酒や水を入れる口が付き、左右の耳に紐を通して肩から吊るすと腰にぴったりフィットする。赤絵を主体にしたカラフルな柄が多い。腰瓶とも呼ばれる。