渋草焼
渋草焼(しぶくさやき)は岐阜県高山市で焼かれる飛騨高山の伝統的なやきもの。
渋草焼の歴史
江戸後期の天保11年(1840年)に飛騨郡代豊田友直が陶磁器を自給自足すべく、官民共同の窯場を作ったのが始まり。
瀬戸、九谷から陶工や絵師を招き、地元の渋草陶石を使って独特の「飛騨赤絵」を生み出した。江戸幕府崩壊に伴い、一切の援助が打ち切られ衰退。
しかし、明治11年(1878年)に三輪源次郎ら4人の率いる芳国舎(設立当初は陶甄社という名前だった)が窯元を復活させ、有田や瀬戸に陶工を派遣して研鑽させた。
芳国舎は決して軌道に乗らなかったが、三輪の作品は数々の博覧会に出展しては入賞を遂げている。
渋草焼の特徴
原料に地元の渋草陶石を用いる。そして瀬戸や九谷といった磁器産地から陶工、絵師を招聘し、瀬戸や九谷の特徴を織り交ぜながら、飛騨赤絵、飛騨九谷と呼ばれる独自の磁器を生み出した。
今日では芳国舎と柳造窯の2か所が煙を上げている。前者は昔ながらの手書きの絵付磁器を焼く。平成4年(1992年)3月30日に岐阜県郷土工芸品に指定されている。
伝統の「飛騨赤絵」
渋草焼は九谷や瀬戸の技法を取り入れ、その作風を確立した。少し鉄分を含む渋草陶石は焼くとわずかに青みを帯びた白地になり、藍、赤、緑、黄などの絵付けが独特の風合いを生み出す。
渋草焼の観光情報
渋草焼芳国舎
高遠焼
高遠焼は、長野県上伊那郡高遠町(現伊那市)にて焼かれる陶器のこと。
高遠焼の由来
文化9年(1812)年に高遠城内に水を引くための土管を焼かせるために窯を開いたのが始まり。その後は御庭焼として重宝された。明治10年に衰退、昭和初期に一旦廃窯の憂き目に遭うが、昭和50年に陶工、唐木米之助が復興させた。
高遠焼の特徴
高遠焼の特徴は釉薬にあり、特に原料の粘土が赤土であるために彩りを出すため釉薬を二重掛けしているのが特徴。使用される釉薬は緑釉に白釉、深い青を出す瑠璃釉、そして高遠名物のコヒガンザクラに因んだ桜色の桜釉も使われる。
現在では登窯も使用し、年に一回焼かれている。
伝統の「緑釉・瑠璃釉・桜釉」
釉薬の工夫に特徴があり、藁灰釉を基本ベースに二重掛けして、微妙な色合いを出す。小彼岸桜の名所らしく、桜色に焼き上げる釉薬もある。
高遠焼の観光情報
高遠焼白山登窯